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体罰は
子どもたちに
「思考停止」を
つくるだけ。
これは
中学校の部活動で
体罰を受け・・・
高校の部活動で
体罰を
いっさい受けず・・・
ソフトテニスという種目で
中学、高校の6年間
「日本一をとる」ことを
目標にしてきた
私が
10数年前から
思っていることだ。
中学生の頃は
壮絶な体罰が
部活動で
行われていた。
ひどいときは
テニスコートの
一面から七面まで
往復ビンタ。
一度殴られ
おびえたそぶりを
見せようものなら
さらに殴られる。
殴られて倒れても
顧問の目の前に
もう一度、立つ。
そして
また殴られる。
口が切れたり
眼鏡が壊れたりもする。
ラケットで
頭を
小突かれる。
胸ぐらを
突き飛ばされる。
試合に
勝とうが負けようが
内容が悪ければ
怒られるのだ。
「攻めるテニス」が
できなければ
殴られるのだ。
つまり
顧問の
目指すテニスで
なければならない。
「つなぎのテニス」
「守りのテニス」
では
ダメなのだ。
他校の選手に
言われたことがある。
「〇〇中学校は、誰が相手でも、同じ場面で同じことをやってくるね・・・」
デュースのとき・・・
マッチポイントを握ったとき・・・
握られたとき・・・
流れを変えたいとき・・・
ファイナルゲームの入り方・・・
重要な場面というのは
いろいろあるが
そのときどきで
私たちはみんな
同じ仕掛けをすると
言われていた。
中学生のころは
そう言われるのが
誇らしげでもあった。
だけど・・・
ゲームのセオリーや
相手との駆け引きを
自分の頭で
導き出して
プレーしていた
わけではない。
(少なくとも、私は・・・)
いま思えば
「怒られないように」
プレーしていたのだ。
「このポイントでは、この攻めをしておけば怒られないだろう」と。
だからと言って
適当にやっていた
わけでもない。
あのころの
私は
強くなりたかったし
勝ちたかった。
顧問に
反抗することも
あったが・・・
結局は
顧問の言うことを
聞きさえすれば
勝てるのだと
結論づけていた。
自分の頭で考え
失敗をくりかえしていく
という
作業をしなかった。
やっぱり
殴られるのは
嫌だった。
中学では
そうしていれば
それなりの
レベルまでは
勝ち進むことが
できていた。
身長も体重も違う・・・
利き手も違う・・・
ペアの持ち味も違う・・・
性格も違う・・・
その13人が
まったく同じ
テニスをしていた。
一転・・・
高校では
顧問からの指導は
ほとんどない。
体罰など
当然ない。
約50人という
大所帯のチームだ。
顧問に
言葉をかけられることも
ほとんどない。
コートの割り当ても
なければ
固定レギュラーもない。
一年生から三年生まで
常に50人での
レギュラー争い。
平等にチャンスはある。
いかに
自分の力を
最大限に
引き出せるのか
一人一人が
真剣勝負だ。
自分の持ち味を
いかに
顧問に
アピールできるか
みんな必死だ。
完全に
思考停止に
陥っていた私には
自分が何をすべきか
何が欠け、何が必要か
まったく
わからなくなっていた。
混迷は
約二年間つづいた(苦笑)
・・・・・
大阪市立高校の
部活動キャプテンが
体罰を苦に
命を絶った事件。
その報道を
テレビ画面で
見たとき
一瞬
身動きが
とれなくなった。
中学生のころの
自分とチームメイトを
思い出した。
私たちの部活でも
「体罰」を理由に
退部した
仲間がいた。
「親が辞めさせた」
というのが
私たち仲間が
認識していた
退部の理由だった。
私は当時
そして
卒業してから
短くない数年の間
「ある程度の体罰は必要」と
考えていた。
体罰の代償として・・・
「技術の向上」
「レギュラー獲得」
「試合での勝利」
「大会優勝」
「自分が強くなれる」
と思っていた。
ある意味、私は
目に見える体罰に
耐えられたのだろう。
でも、私は
長い間
体罰の代償として
「思考停止」となっていた
自分に
気づくことはなかった。
高校の三年間で
自分で考え
自分と向き合うことを
教えてもらったが・・・
高校を卒業しても
大学生になっても
中学のときの「体罰」で
もたらされたことを
振り返ることはしなかった。
社会人になり
自分の責任も増し
はじめて
あのころを
振り返るようになった。
最近
テレビに出てくる
コメンテーターの中には
体罰は
指導の一つのあり方
などと言って・・・
「子どもの性格を見きわめて、判断すべき」
なんて
言う人がいる。
体罰は
見せしめでもある。
私は
比較的
体罰を
受けることは
少ない選手だった。
やはり
キャプテンや
エースが
的となる。
でも
チームメイトに
ジリジリと歩み寄り
殴り飛ばす
顧問の姿は
20年たった今も
鮮明に
覚えている。
チームメイトの
恐怖に震える
表情を
忘れない。
痛みはなくとも
そこにいる
全員の心に
恐怖を植えつけている。
「ああならないように・・・」
子どもたちに
「生きる力」を
身につけさせていく
学校教育。
自分の頭で考える・・・
自立に
つながっていく
大事な力だ。
重要な
教育目標だ。
体罰は
絶対に
あってはならない。
子どもたちに
「思考停止」を
つくるだけ。
これは
中学校の部活動で
体罰を受け・・・
高校の部活動で
体罰を
いっさい受けず・・・
ソフトテニスという種目で
中学、高校の6年間
「日本一をとる」ことを
目標にしてきた
私が
10数年前から
思っていることだ。
中学生の頃は
壮絶な体罰が
部活動で
行われていた。
ひどいときは
テニスコートの
一面から七面まで
往復ビンタ。
一度殴られ
おびえたそぶりを
見せようものなら
さらに殴られる。
殴られて倒れても
顧問の目の前に
もう一度、立つ。
そして
また殴られる。
口が切れたり
眼鏡が壊れたりもする。
ラケットで
頭を
小突かれる。
胸ぐらを
突き飛ばされる。
試合に
勝とうが負けようが
内容が悪ければ
怒られるのだ。
「攻めるテニス」が
できなければ
殴られるのだ。
つまり
顧問の
目指すテニスで
なければならない。
「つなぎのテニス」
「守りのテニス」
では
ダメなのだ。
他校の選手に
言われたことがある。
「〇〇中学校は、誰が相手でも、同じ場面で同じことをやってくるね・・・」
デュースのとき・・・
マッチポイントを握ったとき・・・
握られたとき・・・
流れを変えたいとき・・・
ファイナルゲームの入り方・・・
重要な場面というのは
いろいろあるが
そのときどきで
私たちはみんな
同じ仕掛けをすると
言われていた。
中学生のころは
そう言われるのが
誇らしげでもあった。
だけど・・・
ゲームのセオリーや
相手との駆け引きを
自分の頭で
導き出して
プレーしていた
わけではない。
(少なくとも、私は・・・)
いま思えば
「怒られないように」
プレーしていたのだ。
「このポイントでは、この攻めをしておけば怒られないだろう」と。
だからと言って
適当にやっていた
わけでもない。
あのころの
私は
強くなりたかったし
勝ちたかった。
顧問に
反抗することも
あったが・・・
結局は
顧問の言うことを
聞きさえすれば
勝てるのだと
結論づけていた。
自分の頭で考え
失敗をくりかえしていく
という
作業をしなかった。
やっぱり
殴られるのは
嫌だった。
中学では
そうしていれば
それなりの
レベルまでは
勝ち進むことが
できていた。
身長も体重も違う・・・
利き手も違う・・・
ペアの持ち味も違う・・・
性格も違う・・・
その13人が
まったく同じ
テニスをしていた。
一転・・・
高校では
顧問からの指導は
ほとんどない。
体罰など
当然ない。
約50人という
大所帯のチームだ。
顧問に
言葉をかけられることも
ほとんどない。
コートの割り当ても
なければ
固定レギュラーもない。
一年生から三年生まで
常に50人での
レギュラー争い。
平等にチャンスはある。
いかに
自分の力を
最大限に
引き出せるのか
一人一人が
真剣勝負だ。
自分の持ち味を
いかに
顧問に
アピールできるか
みんな必死だ。
完全に
思考停止に
陥っていた私には
自分が何をすべきか
何が欠け、何が必要か
まったく
わからなくなっていた。
混迷は
約二年間つづいた(苦笑)
・・・・・
大阪市立高校の
部活動キャプテンが
体罰を苦に
命を絶った事件。
その報道を
テレビ画面で
見たとき
一瞬
身動きが
とれなくなった。
中学生のころの
自分とチームメイトを
思い出した。
私たちの部活でも
「体罰」を理由に
退部した
仲間がいた。
「親が辞めさせた」
というのが
私たち仲間が
認識していた
退部の理由だった。
私は当時
そして
卒業してから
短くない数年の間
「ある程度の体罰は必要」と
考えていた。
体罰の代償として・・・
「技術の向上」
「レギュラー獲得」
「試合での勝利」
「大会優勝」
「自分が強くなれる」
と思っていた。
ある意味、私は
目に見える体罰に
耐えられたのだろう。
でも、私は
長い間
体罰の代償として
「思考停止」となっていた
自分に
気づくことはなかった。
高校の三年間で
自分で考え
自分と向き合うことを
教えてもらったが・・・
高校を卒業しても
大学生になっても
中学のときの「体罰」で
もたらされたことを
振り返ることはしなかった。
社会人になり
自分の責任も増し
はじめて
あのころを
振り返るようになった。
最近
テレビに出てくる
コメンテーターの中には
体罰は
指導の一つのあり方
などと言って・・・
「子どもの性格を見きわめて、判断すべき」
なんて
言う人がいる。
体罰は
見せしめでもある。
私は
比較的
体罰を
受けることは
少ない選手だった。
やはり
キャプテンや
エースが
的となる。
でも
チームメイトに
ジリジリと歩み寄り
殴り飛ばす
顧問の姿は
20年たった今も
鮮明に
覚えている。
チームメイトの
恐怖に震える
表情を
忘れない。
痛みはなくとも
そこにいる
全員の心に
恐怖を植えつけている。
「ああならないように・・・」
子どもたちに
「生きる力」を
身につけさせていく
学校教育。
自分の頭で考える・・・
自立に
つながっていく
大事な力だ。
重要な
教育目標だ。
体罰は
絶対に
あってはならない。
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プロフィール
HN:
佐藤あや子
年齢:
46
性別:
女性
誕生日:
1978/04/18
自己紹介:
1978年、東京都中野区生まれ。9歳のとき、東京都昭島市に転居。
昭島市立中神小学校、昭和中学校を卒業。ソフトテニスで東京選抜代表となり都大会優勝。
群馬女子短期大学付属高校(現在は、高崎健康福祉大学高崎高校)普通科体育コースにスポーツ留学。寮生活をしながら、ソフトテニスで日本一をめざす。
東京女子体育短期大学保健体育学科卒業。中学校教員免許(保健体育)を取得。
2002年秋まで、昭島市保健福祉センター「あいぽっく」の水浴訓練室で、高齢者や障がい者のリハビリ支援。障害者スポーツ指導員の資格をとり、障害者水泳マラソンや知的障害者サッカーワールドカップなどをサポート。
2003年4月、25歳で昭島市議会議員初当選(現在、4期)。市議会議会運営委員会副委員長、厚生委員会副委員長、文教委員会副委員長、交通機関改善対策特別委員会副委員長、立川基地跡地利用対策特別委員会副委員長、都市計画審議会委員、立川・国立・昭島聖苑組合議会議員など歴任。
2019年4月の市議会議員選挙で五期目当選。現在、日本共産党昭島市議団会派代表、総務委員会委員長、立川基地跡地利用対策特別委員、都市開発審議会委員、昭島市民生委員推薦会副委員長。
日本共産党立川・昭島地区委員会副委員長、青年学生部長、2016年12月〜2017年8月まで衆議院東京21区予定候補(選挙区変更により、昭島市の区割りが東京25区に変更したため予定候補を降任)を歴任。昭島市議団長。
趣味は、水泳、ヨガ、2007年から習い始めたピアノの練習(なかなか上達しない)、宿坊めぐり、酒器あつめ、旅行など。家族は夫。
≪連絡先≫
●日本共産党
立川・昭島地区委員会
〒190-0022
東京都立川市錦町
1-16-13米久ビル1階
TEL
042-523-2589
FAX
042-529-4739
●日本共産党
佐藤あや子事務所
〒196-0025
東京都昭島市朝日町
3-7-14
TEL
042-549-0025
FAX
042-511-9936
●昭島市議会
日本共産党市議団控室
〒196-8511
東京都昭島市田中町
1-17-1
TEL&FAX
042-544-7213
昭島市立中神小学校、昭和中学校を卒業。ソフトテニスで東京選抜代表となり都大会優勝。
群馬女子短期大学付属高校(現在は、高崎健康福祉大学高崎高校)普通科体育コースにスポーツ留学。寮生活をしながら、ソフトテニスで日本一をめざす。
東京女子体育短期大学保健体育学科卒業。中学校教員免許(保健体育)を取得。
2002年秋まで、昭島市保健福祉センター「あいぽっく」の水浴訓練室で、高齢者や障がい者のリハビリ支援。障害者スポーツ指導員の資格をとり、障害者水泳マラソンや知的障害者サッカーワールドカップなどをサポート。
2003年4月、25歳で昭島市議会議員初当選(現在、4期)。市議会議会運営委員会副委員長、厚生委員会副委員長、文教委員会副委員長、交通機関改善対策特別委員会副委員長、立川基地跡地利用対策特別委員会副委員長、都市計画審議会委員、立川・国立・昭島聖苑組合議会議員など歴任。
2019年4月の市議会議員選挙で五期目当選。現在、日本共産党昭島市議団会派代表、総務委員会委員長、立川基地跡地利用対策特別委員、都市開発審議会委員、昭島市民生委員推薦会副委員長。
日本共産党立川・昭島地区委員会副委員長、青年学生部長、2016年12月〜2017年8月まで衆議院東京21区予定候補(選挙区変更により、昭島市の区割りが東京25区に変更したため予定候補を降任)を歴任。昭島市議団長。
趣味は、水泳、ヨガ、2007年から習い始めたピアノの練習(なかなか上達しない)、宿坊めぐり、酒器あつめ、旅行など。家族は夫。
≪連絡先≫
●日本共産党
立川・昭島地区委員会
〒190-0022
東京都立川市錦町
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TEL
042-523-2589
FAX
042-529-4739
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3-7-14
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042-549-0025
FAX
042-511-9936
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